基隆要塞大武崙山堡塁

要約

  • 台湾北部に設置された基隆要塞の大武崙山堡塁を探訪しました。遺構の状態は非常に良く、特に9糎加農の砲座は保存状況が素晴らしいです。
  • 堡塁を一周する通路には石垣で射垜が築かれ、要所には掩壕が設置されています。
  • 掩壕の遺構は、日本陸軍が設置した堡塁や砲台においては、他ではあまり見られないと思われます。

基隆要塞大武崙山堡塁

 台湾の北部にある港町「基隆」には、日本と台湾の連絡拠点の確保を目的として、明治時代に基隆要塞が設置されました。基隆要塞は6か所の砲台(うち3か所は演習砲台)と7か所の堡塁で構成され、いくつかの砲台や堡塁の遺構が現在も残されています。これらの砲台や堡塁のうち、大武崙山(だいぶろんやま)堡塁を探訪したのでご紹介します。大武崙山堡塁は保存状態が良く整備も行き届いているため、探訪にお勧めの堡塁です。(筆者が探訪を行ったのは2018年です)

陸軍築城部本部 編『現代本邦築城史 第二部 第九巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)に加筆)
陸軍築城部本部 編『現代本邦築城史 第二部 第九巻』(国立国会図書館デジタルコレクションに加筆)

基隆要塞設置の経緯

 「現代本邦築城史」によると、基隆要塞設置の計画は明治29年6月には策定されていたものの、財政難のために工事は開始されず、明治30年度に清国時代の防備施設の一部改修を実施するに留まっていました。その後、明治32年1月に「基隆防御計画要領」が裁可され、同年4月には陸軍大臣から工事実施が命ぜられました。手始めに、明治33年3月に木山堡塁の工事が開始され、同年8月には今回紹介する大武崙山堡塁の工事も着手されました。この後も各砲台や堡塁の工事が順次実施され、明治36年5月には基隆要塞司令部の設置に至りました。さらに砲台や堡塁の工事が続き、明治42年3月に基隆要塞設置に係る工事が完了しました。

大武崙山堡塁の経緯

 「基隆古蹟情懷」によると、日本陸軍が大武崙山堡塁を設置する以前から、清朝による城塞が同地に築かれていたようです。アヘン戦争(1840年~1842年)や中仏戦争(1984年~1985年)に備える目的で設置されたようですが、正確な築城年は分からないそうです。その後、大武崙山堡塁が明治33年8月15日に起工され、明治35年1月28日に竣工、昭和13年3月に除籍となります。除籍から50年近く経った1985年8月19日に、台湾の日本統治時代における基隆要塞の一つであり、その希少性には建築史研究における保存価値があることから、二級古積に指定されましたが、「第二級古蹟大武崙砲臺修復計劃」によると、同書が出版された1980年代終わり頃は、倒木や土砂の堆積等で、やや荒れた状態になっていたようです。その後、修復工事が実施され(1990年6月22日工事完了)、現在の状況に至ったようです。

大武崙山堡塁の概要

 「現代本邦築城史」によると、以下のとおりです。

  • 任務:主として堡塁西方の起伏地を射撃し、隣接する堡塁(木山堡塁)の側面を防御する
  • 備砲:9糎加農×4門(砲座2)標高228.6m、小口径速射砲×4門(砲座2)標高223.7m
  • 起工:明治33年8月15日
  • 竣工:明治35年1月28日
  • 除籍:昭和13年3月(陸密第133号)

大武崙山堡塁の位置と配置図

 大武崙山堡塁を擁する基隆要塞が設置された基隆は台湾のほぼ北端、台北から北北東へ約30kmの距離にあります。大武崙山堡塁は、基隆の中心部から北東へ約5kmにある大武崙山(標高255m)に位置しています。大武崙山の西側から南側にかけて、大武崙山を取り囲むように谷あいの地形が広がっており、この谷あいより東側では、大武崙山が最も高い山となっています。基隆の西側から陸路で基隆市街へ入る場合、この谷あいの地形を通過する必要があるため、大武崙山に堡塁を築けば、基隆の防衛に非常に有利であると言えます。

基隆と大武崙山堡塁の位置及び地形

 大武崙山堡塁の配置図はいくつかの出版物に掲載されていますが、「基隆大武崙砲臺修復工程工作報告書」に掲載されているのは次のとおりです。

大武崙砲臺施設修復配置圖
(基隆大武崙砲臺修復工程工作報告書:國家圖書館 臺灣記憶 https://tm.ncl.edu.tw/より)

 また、「二級古蹟大武崙砲臺調查研究暨考古試掘計劃」には、大武崙山堡塁の鳥観図が掲載されており、この鳥観図を用いて大武崙山堡塁について説明します。なお、鳥観図では、右側が北、左側が南、上側が西、下側が東となっています。遺構の保存状態は非常に良く、雑草や雑木が繁茂することもなく、手入れが行き届いています。

基隆大武崙砲台全図鳥観図
(二級古蹟大武崙砲臺調查研究暨考古試掘計劃:國家圖書館 臺灣記憶 https://tm.ncl.edu.tw/より)

遺構の状況:監守衛舎、厩舎、棲息掩体部、兵舎、便所

 堡塁の南東側に出入口があり、出入口から西北西方向に進むと右側に監守衛舎②の跡が見られます。しかし、残念ながら基礎しか残っていません。(②は、鳥観図に記されている番号です。)

監守衛舎② 建物はなく、基礎しか残っていない

 さらに西へ進むと分岐があり、分岐の北側に厩舎③、棲息掩体部④、兵舎⑤、便所⑥の遺構が見られます。

厩舎③ こちらも基礎しか残っていない
棲息掩体部④ 三連となっており、内部は通路で相互に繋がっている
兵舎⑤(その1) 石造りで外側表面にモルタルが塗られている
兵舎⑤(その2) 手前に大部屋、奥側の壁面のさらに奥に小部屋がある
便所⑥ 石造りの切妻造で、外側表面にモルタルが塗られている
便所⑥(その2) 大便座が4か所並んでいる。反対側は区画が分かれておらず、小便座と思われる

 兵舎⑤(約25m×約7m)と便所⑥(約4m×4m)の遺構については屋根がないものの、建物の一部が残されています。棲息掩体部④は3か所あり、それぞれ幅は6m程度ですが、向かって右側が最も奥行きがあり約13m、中央が約9m、左側が約5mとなっており、形状は日本の各地の砲台で見られるものと非常によく似ています。なお、棲息掩体部の出入口は東南東側に設けられています。厩舎③(約6m×約4m)については基礎しか残っておらず、どのような建物あったのかはよく分かりません。

遺構の状況:砲座、砲側庫、観測所

 分岐から東側へ進むと手前側と奥側に砲座が2か所(⑨及⑧)あり、それぞれ2門ずつ砲を設置するスペースがあります。

砲座(手前側)⑨(その1) 1つの砲座に2門設置することが出来る
砲座(手前側)⑨(その2) 即用弾置場が確認できる
砲座(手前側)⑨の平面図
(二級古蹟大武崙砲臺調查研究暨考古試掘計劃 國家圖書館 臺灣記憶 https://tm.ncl.edu.tw/より)
砲座(奥側)⑧(その1) 手前側の砲座よりも高い位置にある
砲座(奥側)⑧(その2) 扇状の凹部、四角形のやや深い凹部、胸墻の弓型の屈曲の状況が確認できる
砲座(奥側)⑧及び観測所⑦の平面図
(二級古蹟大武崙砲臺調查研究暨考古試掘計劃 國家圖書館 臺灣記憶 https://tm.ncl.edu.tw/より)

 砲座には扇状の凹部があり、扇の中心側(胸壁側)には四角形のやや深い凹部が見られます。また、砲座の胸墻は四角形の凹部付近で弓型の屈曲が確認できます。これらの特徴は下関要塞の矢筈山堡塁の砲座にも見られ、矢筈山堡塁にも9糎加農が配備されたと記録されていることから、大武崙山堡塁で見られるこれらの砲座は9糎加農のものと考えられます。それぞれの砲座は一部に欠損が見られるものの保存状況は非常によく、9糎加農の砲座を観察するにはうってつけの場所と思います。

下関要塞矢筈山堡塁の砲座(9糎加農の砲座と考えられる)

 砲座は、分岐から砲座へと延びる通路よりも一段高くなっており、砲座へ進むスロープや階段が設けられています。このあたりの構造も、日本各地で見られる砲台とよく似ています。

 それぞれの砲座の側には砲側庫(⑪及び⑩)があり、手前側の砲座には1か所、奥側の砲座には2か所の砲側庫が見られます。いずれの砲側庫も分岐から砲座へと延びる通路よりも一段低くなっており、通行するための階段が設置されています。

砲側庫(手前側)⑪ 分岐から砲座方向へ入ってすぐの位置にある
砲側庫(奥側)⑩(その1) 分岐から砲座へと延びる通路よりも一段低い位置にある
砲側庫(奥側)⑩(その1) 砲側庫より階段を2か所上がったところに奥側の砲座がある

 奥側の砲座よりもさらに奥に、観測所が見られます。観測所は直径約3m程度の円形の凹部で、周囲は石垣で固められています。観測所には測遠機を設置するための台や金属製の天蓋はなく、非常にシンプルな構造です。

観測所⑦ 測遠機を設置する台はなく、丸いスペースの

 手前側の砲座の主線は西南西、奥側は西北西であり、すべての砲側庫の出入口は東北東側に設けられ、前述の棲息掩体部の出入口は東南東側に設けられていることから、大武崙山堡塁は西側からの攻撃に対峙することを想定して設計されたことが分かります。

遺構の状況:堡塁を一周する通路にある遺構

 分岐から南西に通路を進むと貯水槽⑭が見られます。通路の山側の斜面に設置されており、日本各所の砲台にもよく似た形状の貯水槽を確認することが出来ます。

貯水槽⑭ 通路の山側の斜面に設置されている

 貯水槽をさらに南西側に進むと通路は北西側へ大きく屈曲しますが、ここに掩壕⑬が見られます。

掩壕⑬(その1) 掩壕は、日本ではあまり見かけない

 掩壕は幅約1.5m、深さ約1.6m、長さおおよそ15m程度で、大きく湾曲しており、その両端に階段が設置されています。このような掩壕は、他の堡塁や砲台ではあまり見かけません。

 北北西に延びる通路はやがて北から北北東へ向きを変え、その後、南側へ再び大きく向きを変えます。この屈曲点にも掩壕⑫が見られます。先ほどの掩壕とは異なりこちらは直線状であり、幅約1.8m、深さ約1.6m、長さ約10mです。

掩壕⑫(その1) 階段は掩壕の両端に設けられている

 南側へ再び向きを変えた通路は、今度は東南東へ向きを変え、さらに南西方向へ転換し、厩舎③、棲息掩体部④、兵舎⑤、便所⑥の遺構がある区域に繋がり、大武崙山堡塁を一周します。

堡塁を一周する通路の石垣と掩壕

 堡塁を一周する通路の外側には石垣で壁が築かれています。この石垣は、周囲から堡塁を目指して進撃する敵兵に対して、身を隠しつつ銃撃を加えるための射垜と考えられ、同様の構造が佐世保要塞の前岳堡塁などでも見られます。また、これらの射垜に配置する兵を敵の砲撃等から一時的に防護するために、掩壕を設置したのではないかと思われました。掩壕の階段は掩壕の両端に設けられており、敵兵の動きに合わせて素早く兵を射垜に展開するための工夫ではないかと推察しました。さらに、掩壕の位置については、防御上脆弱な部分(通路が尾根上を通過する部分。通路が大きく屈曲し、複数の方向から攻撃を受けやすい)に設置された可能性も考えらえました。

射垜(堡塁を一周する通路各所にあり) 通路の左側(外側)に石垣で壁(射垜)が築かれている
佐世保要塞前岳堡塁にも通路の外側に石垣で壁(射垜)が築かれており、大武崙山堡塁のそれと構造が非常に似ている

「雨都」基隆、雨もまた良し

 基隆は非常に雨が多い町で、「雨都」と呼ばれているそうです。自分が訪問した際も雨が降ったりやんだりのあいにくの天気でしたが、石造りの堡塁は雨に濡れると光沢が出てとても美しく、雨の日の訪問も良いものだと気がつきました。大武崙山堡塁は基隆から近く、台北からの日帰りも可能なうえ、保存状態の良い遺構を見学できるため、探訪にお勧めです。

 「基隆要塞大武崙山堡塁」は以上のとおりです。最後まで読んでいただきありがとうございました!

参考文献

  • 陸軍築城部本部、『現代本邦築城史』、陸軍築城部本部、1943年(国立国会図書館所蔵)
  • 基隆市政府民政局禮俗文獻課、『基隆古蹟情懷』、國家圖書館臺灣記憶系統、1997年(https://tm.ncl.edu.tw/index?lang=chn)
  • 陳信樟、『基隆大武崙砲臺修復工程工作報告書』國家圖書館臺灣記憶系統、1990年(https://tm.ncl.edu.tw/index?lang=chn)
  • 基隆市政府民政局禮俗文獻課、『基隆古蹟情懷』、國家圖書館臺灣記憶系統、1997年(https://tm.ncl.edu.tw/index?lang=chn)
  • 曾文吉、『二級古蹟大武崙砲臺調查研究暨考古試掘計劃』、國家圖書館臺灣記憶系統、2003年(https://tm.ncl.edu.tw/index?lang=chn)
  • 文化部文化資產局、『大武崙砲台』、國家文化資產網、https://nchdb.boch.gov.tw/assets/overview/monument/19850819000027、(2023年9月3日参照)